舞台『未婚の女』を観劇して

こんにちは。しろです。

あの日からいつの間にか一ヶ月も経ってしまったみたいですね。10/18~10/22の5日間、夏川椎菜さんが座長の舞台『未婚の女』を観劇してきました。忘れないうちに思ったこと感じたことを書き残したいと思います。

視覚的に印象に残ったのは、"赤"でした。
舞台上に存在する赤は、電球に絡まった赤い紐、ノートを縛る赤い紐、4姉妹のドレスの腰に結った赤い紐と口紅、軍服やヒトラーの肖像写真に掛けられたハーケンクロイツの腕章。そして、マリアの赤髪。

ヒトラーは著作『Mein Kampf』の中でこう言っています。

国家社会主義者としてわれわれは、われわれの旗の中にわれわれの綱領を見る。

われわれは赤の中に運動の社会的思想を、白の中に国家主義的思想を、ハーケンクロイツの中にアーリア人種の勝利のための闘争の使命を、そして同時にそれ自体永遠に半ユダヤ主義であったし、また反ユダヤ主義的であるだろう創造的な活動の思想の勝利を見るのだ。

(邦訳版の角川文庫『我が闘争(下巻)』183ページ)

この本は国家社会主義で訳してるんですね。

劇中、マリアは常に赤と共にありました。
頭は赤に染まっていて、日記は赤い紐で縛り、赤い紐を手に取りあやとりをし、最期は赤い紐に縋っていました。マリアとナチズムは不可分だったのだと思います。

他には血の繋がりとしての描写もありましたね。
ウルリケとマリアのあやとりやイングリッドを縛る赤い紐とか。

山村さんは舞台のために髪を赤く染めたことをポストしており、この舞台にとって重要な要素だったことが窺い知れます。

劇中に電球の明滅が何度かありました。場面転換に用いられていたと思いますが、他にも意図が含まれているようにも思いました。
というのも、演者が舞台中央に吊るされた電球の明滅に目を向ける中、マリアだけが目を逸らしたり背中を向けていたことがありました。

光は正義や正しさの象徴としてよく用いられているように思います。RPGには審判の光なんて言葉も出てきます。

また、物を目で見る際にも光は欠かせません。人間は目に入った光が水晶体を通り網膜上で像を結び視神経を通すことで脳に伝わります。

自分にとって都合のいいことしか見ない。罪から目を逸らし続けてそれ以外が見えなくなっている。そんな人生を送ったからこそ、マリアは光を失ったのではないでしょうか。

light(光)とright(正しい、右、右翼)。それに対する左翼なんて言葉遊び深読みおじさんもしましたが、ナチズムについては勉強不足なので言及を控えます。

罪と罰

劇中に何度か繰り返された「その罪をAであると告発するものは、Bであるとも証明しなければならない」はドイツの慣用句「wer A sagt, muss auch B sagen」、"1度何かを始めたら、その結果にも責任を持たないといけない"の意味だと考えました。

上述したようにマリアの罪と罰は、根付いたナチズム、村社会の規律に盲目に従った密告。その結果から目をそらして責任を放棄したことに対する失明だと考えました。

イングリッドとウルリケについてはどうでしょうか。

イングリッドについては、父に対する異常な執着、その反発からの親不孝、男と遊んで家に帰らず幼少期のウルリケにした育児怠慢。対して、成長したウルリケからの反抗やマリアの介護疲れからの自死。罰はそんなところでしょうか。しっくりきてはいませんが。

ウルリケは不特定多数との不貞。それが露呈し激情した男からの暴行あるいは殺害。

死の描写

死のメタファーも多く見られました。
椅子の上に立つ。絞首のようにも見える深呼吸のポーズ。椅子を倒す。光を消す。明かりを消す。睡眠薬。斧で木を断つ。橋掛かりを渡る(能において幕の奥を幽界、舞台を現世と位置づけるらしい)など能の舞台ならではの表現もありました。

明確な描写はありませんでしたが、それぞれ首吊り、睡眠薬オーバードーズ、男からの暴行で命を落としたんだと思います。

所感

夏川さんが挨拶で仰られていたように、この舞台は難しかったです。
明確な描写が無かったり、フラッシュバックか走馬灯かマリアのせん妄か、とにかく時系列がバラバラで行ったり来たりして混乱します。
そもそもが、登場人物それぞれの主観での記憶であるため、虚実が入り混じっており正解が無かったようにも思います。(パンフレットでは幻想の世界のマリアという役柄、と山村さんも言及されています)

そんな意図が含まれた舞台だからこそ、分からないを持ち帰ってそれについて考えたり、正解を追い求めて調べたり、観劇した人同士で語り合う、というような動きも沢山生まれたのではないでしょうか。

実際、僕も海外での初演の記事をDeepLに投げたり、ドイツの劇場の出版社が5割公開してるテキストをDeepLに投げて差分から脚本の意図を探ろうとしたり、サウンドトラックの曲のタイトルから考えを巡らせてみたり、深作組の手のひらの上で踊らされていました。色々調べ回った末に、「海外の公演での中年の女役がオペラ『エレクトラ』でエレクトラ役をしていた」なんてコンテキストも拾って、誰が分かるんだよ!って突っ込んだ舞台期間真っ只中の夜が楽しかったことを覚えています。近くの公園で解釈を語り合ったいつもましてのオタクたちも、ありがとう。

演技については挨拶で触れられていたように、演者が舞台袖に戻るタイミングもほぼ無くて、台詞が無い瞬間も各々が常に演じ続けているあの空間は得難いものでした。
また、ダブルキャストイングリッドは演じる人によって違った解釈が生まれるのがとても良い効果を生んでいたように思います。

カーテンコールでは誰よりも深くお辞儀をする宮地大介さん、お辞儀をしながら舞台を撫でてグータッチするサヘル・ローズさんが印象的でした。座長の夏川椎菜さんもいつも通り素晴らしい挨拶を残してくれました。

挨拶を文字に残してくれるデータ収集型オタクも、いつもありがとう。

今回の舞台を通して、人・文化・立場・状況の違いで、正義も普通も記録や記憶でさえも違ってくる、って当たり前の視点も再確認させられました。また、過去に起きた出来事、なんて他人事ではいられなくて、全ては地続きだし、そんな過去を振り返って考える機会は何度あっても良いものだなと思いました。

月並みな感想ですが、これでブログを締めようと思います。